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けいほく通信 - 株式会社カモノセログ

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  • けいほく通信 #2 ──麒麟が来た!

    作成日2020年06月23日(火)

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    こんにちは。まるおです。

    大河ドラマ『麒麟がくる』観てますか〜!? 

    地元が舞台だし、光秀の衣装やらセットやらがめっちゃカッコいいしでハマっていたのですが、

    休止期間に放送された『国盗り物語』を観たら

    「あれ? むかしの衣装やセットのが役者の演技が引き立つやん!?」と、こっちに浮気していているわけです(笑)

     

    松坂慶子さんって、きれいやわ〜〜〜

     

    * * * *

     

    光秀はどんな人物だったのか、人々にどう受け止められたのか。

     

    内政に長け領民に愛される人だったことは、整然といまも守り継がれている亀岡のまちなみを見ればわかるのですが、

    宣教師のルイス・フロイスは「当代第一の築城の名手」と光秀を評しています。

     

    お城か! 行ってみよう!! ……というわけで、行ってきましたよ、福知山城。

     

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    ──コロナで入れませんでした。

     

    行ってきましたよ、亀山城!

    ──コロナで入れませんでした。

     

    コロナコロナ・・・・

     

    で、知らなかったわけです。

     

    京北の城主が光秀だったことを。

    京北に通いはじめて1年近くなるわけですが。

     

    ふつう、地元舞台の大河ドラマやってたら、町中まつりになると思うじゃないですか!?

    たしかに道の駅なんかにはちょちょっと『麒麟が……』ののぼりがあったりはするんですが。

    その名も周山城。

     

    カモノセログから毎日見上げていた山の名前が「城山」、まさにそこが光秀のお城だったのです。

    山城で、石垣しか残ってない状態なのでコロナは関係なし!

     

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     山の尾根に沿って石垣がながーく連なって、さながら万里の長城!

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    山道をひたすらのぼると。。。。

     

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    * * * *

    この周山城、お城に詳しい人に聞くと、城郭史の上で重要な位置づけなのだそうです。

     

    比叡山の焼き討ちに苦労した光秀は、山に石垣を築く山城の重要性に気づき、坂本に城を構えるにあたって穴太衆の石積みの技術を取り入れ、安土城を経て、その後の巨大な城郭へと連なる石垣の進化のプロセスにあたるのが周山城なのだそうです。

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    当時から生えているに違いない見事なスギの巨木……すげぇ

     

    そこいらにありそうな石を乱雑に積み上げたこの積み方を「野面積み」と言います。

     

    見た目は雑ですが、水はけがよく見た目以上に頑丈で、コンクリートの法面よりも強度があるのだそうです(石垣が崩れる最大の原因は水を含んだ土圧なので、水はけが最も重要なのだそう)。

     

    試しに石を積んでみたのですが、私の手ではせいぜい3段が限界(笑)

    石の凹凸を見極めて重ねていく、見た目以上に高度な技術であることがわかります。

     

    教わって驚いたのは、この野面積みの技術ができるまでは、石垣は最大で30cm程度が限界だったのだそうです。

    それがこの周山城では1m程度の高さ。

    後の切石組によって数メートルの石垣が組めるようになるまで、石工の技術が戦国末期の短い時間に急速に進歩していきます。

    その技術発展の節目に当たるのが、この周山城の石垣なんだそうです。

     

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    京北の町が一望! 残念ながらカモノセログはちょうど尾根の影になっちゃってます。

     

    * * * *

     

    周山城が築かれたのが、本能寺の変の1年前。

    東丹波制圧に際して、最も抵抗が激しかったこの地域を攻める拠点として城は作られました。

    京北のお寺が焼き討ちされた記録があったり、先に書いた京北の36家が滅ぼされたのもこのときで、京北の地にとっては光秀は短い時間にやってきた「侵略者」だったのかもしれません。

     

    麓のお寺には、黒塗りの光秀像が残っています。

    誰が造ったのか、なぜ黒く塗りつぶされているのか、詳しいことはわかっていないのだそうですが、この光秀像は長谷川さん演じる色白の公家的な姿とは対極の、オニのような鋭い眼光を放っています。

     

    * * * *

     

    石垣に、先の台風で倒れた木が寄りかかって、腐ちかかっています。

    木と石。

    どちらも建物の主要な材料ですが、まったく違う性質の2つの素材が美しいコントラストをなしてますね。

     

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  • けいほく通信 #1 ──京北は都の大工のふるさと

    作成日2020年06月15日(月)

    こんにちは。まるおです。

    梅雨入りして京都市内は空気が露を含んで、体にまとわりつくよう。。

    こんなときにこそ、すずしい京北に遊びに来てください!

     

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    ↑ だいたい2〜4度くらい市内よりも気温が低いようです

      

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     * * * *

     

    さて、カモノセログのある京北に勤めるようになって、まず気になるのは「京北ってどんな場所?」

     

    「道の駅の野菜がおいしい!」

    「お店の人がやさしい!」

    「週末になるとピザ屋の前にカッコいいポルシェが駐まってる!」

    などなどいろいろありますが、まずは気になるのはその歴史。

     

    調べてみると、平安時代から今日のカモノセログまでつながる深〜〜〜いつながりが見えてきました!

     

     * * * *

     

    最初に京北の地が歴史の書物に登場するのは、都の「修理職」として(「しゅりしき」と読むそうです)。

    都が長岡京へ遷るときに、京北の杣から献上された材木がとても優れていたことから、杣御料(天皇直轄の材木山)として認められ、

    平安京の造営を任され、その後も長らく都の修理職として都を支え、材木と大工の技術を都に提供してきました。

     

    京都に都があった長い年月のあいだずっと、京北の山の木材と大工が都の造営を支えてきたのです。

     

    古くは『方丈記』にもある都の3分の2を焼き尽くしたという安元の大火から、焼き尽くされて「都は野辺の夕ひばり…」の応仁の乱、

    江戸時代の京都三大大火まで、京都の町は幾度となく大火に焼かれてきました。

    そのたびに復興のための木材を、京北の山が供給し続けてきたのではないでしょうか。

     

     古家撰傳集

     

    「 1200年の都」を支えてきたのは京北の樹!

    カモノセログの技術は1200年の技術!!──かどうかはさておき、「住めば都」の施主さんのお家を支えています!

     

     * * * *

     

    古い記録を読んでいると、

    「桂川に流した栗の木が嵯峨で沈んでしまった、金返せ!」

    とか

    「修理職が道楽に凝って税金を取り立てにこないので困ってる」

    とか、

    面白い話がいっぱいあるのですが、気になったのは『森と日本人の1500年』という本に書いてある一節。

     

     ところが、現代まで続く杣があった。ざっと一四〇〇年続く林業地である。

     山国杣(現在の京北)と高島杣だ。

     

    藤原京から平安京までつぎつぎと続けられた都の造営、その材木を生む山はいわば「使い捨て」で、

    木を植えて育てるという、現代でいう「林業」ではありませんでした。

    それが日本で最初に持続的な林業が行われた地の一つが、京北だというのです。

     

     当地に生えるスギは、一般にウラスギと呼ばれる品種である。

     これは日本海側に分布する萌芽性と伏状性の強いスギのことだ。

     通常のスギなど針葉樹は、幹を伐る、もしくは折るともう生えてこないが、

     ウラスギは切り株から萌芽を出すうえ、枝が地面に接すると、そこから根を生やし

     枝が幹となって立ち上がる性質を持つ。

     

    こうした性質を活かして、おそらくは枝を山に挿すことで植林を行なっていたのだそうです。

    1町(1ha)500本程度の疎植だった(現在の北山杉は1haあたり5000~10000本の密植)というので、

    陽をたっぷりと浴びて太く育った杉が立ち並ぶ、今日の北山とまた違った見事な景色が浮かぶようです。

     

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    カモノセログの森。京北林業の1400年の歴史、その森がカモノセログの家づくりを支えています!

     

    京北に日本最初の持続的林業の土地になったのには、もちろん土の良さに加えて、

    都から程よい距離で過度の収奪がなかったとか、上桂川の水流が大量に搬出できるほどにははやくないことなど、

    さまざまな要因があるんだと思いますが、

    やっぱり一番の要因は、京北の人が森を大切に想っていたということに尽きるのだと思います。

     

    京北には杣の領主として36の家が置かれ、材木を年貢として納めたのだそうですが、

    面白いことに、その36の山の面積がはかったように均等だったそうです。

    このような平等な運用が続けられた土地は日本の歴史上ほかにほぼ無いことだそうで、

    この地の人々がむかしから、勢力争いや蓄財ではなく、山からの恵みに対して謙虚に誠実に向き合ってきた証なんじゃないかと思うのです。

     

     

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